2020年3月11日水曜日

吉村静代氏 講演会

「主役はわたしたち」
熊本地震・益城中央小学校避難所
「きままに」のあゆみ
益城だいすきプロジェクト・きままに代表

 塩原校区は2月16日の日曜日に「主役はわたしたち」と題した講演会を開催しました。講師は「益城だいすきプロジェクト きままに」代表の吉村静代さん。益城町に住む吉村さんは、自ら避難生活を送りながら「避難者による避難所運営」の重要性を訴え実践された方です。

【熊本地震の概要】
「地震は来ない」と聞かされていた熊本に地震は突然やってきた。
2016年4月14日、震度7の前震。同16日、震度7の本震。余震が4月末で3,000回を超え、1年間で4309回。16避難者120名、17日車中泊を含め400名。
益城町には日奈久、布田川の2つの断層帯があることを住民は知らなかった。役場も地震の備えはしていなかった。益城中央小学校はその時期(梅雨時期)は避難所に指定されていなかったが、本震で避難者が溢れ避難所として開設された。
 
【避難所レイアウト】
 入所2日後(17日)、余震が続き危険と思い避難通路と非常口をラインテープで優先順位として「出入口に近くには高齢者や障がいのある方」「通路の幅は90㎝車いすが通れる通路確保」避難所内の区画整理が出来た。……。自分の居場所は話し合いで決めた。役場の職員や他の人が決めたら必ず文句が出る。避難者(吉村)からの提案だったのでみんなの協力が得られた。通路は90cm幅が2本。他に40cm、50cm通路ができた。最大時400名。どうにか人が歩ける程度だ。

 
【発災直後の食事】
避難生活初日(14日)は14時過ぎごろまで食事は出なかった。役場の職員に聞いても「分からない」との返事。災害本部に直接電話を入れ、自衛隊の炊き出し車に来てもらった。地域づくりボランティア団体ネットワークが町外、県外に居たのでその仲間に「400食の炊き出しに来てよ」と声をかけた。そのネットワークがバトンをつないでくれた。
  
【500名余でトイレ15基】
 避難所は断水していたがプールの水を運び、男性用3基、女性用3基、多目的1基が利用できた。4日後には仮設トイレ8基搬入、計15基に。5月14日に男性用5基、女性用7基が洋式に交換された。

【多様な生活の場に】
段ボールベットとパーティション導入で個々人のプライバシーは守れるようになったが、安否確認、不審者の侵入が危惧された。パーティションは寝るときは閉め昼間は開けっ放し、外出する時は全部開けっ放しにすることにした。
福岡県広域の行政の人たちが支援。その中に子供たちを朝から晩まで遊ばせてくれたことにより、子供たちも落ち着きを取り戻してきた。きままにサロン、キッズサロンも設置。段ボールで作ったテーブルを囲み、お茶を飲みながらお互いの痛みを共有し合う場ができたことにより、みんなが仲良くなり、元気になっていった。

【自主運営に移行】
1カ月半。住民を集め「行政マンの方は本来の仕事に戻ってもらおう」との思いで、役場に自主運営を伝えた。「子供たちに早く体育館を返さなければ」との思いもあった。
2ヶ月後にやっと自主運営に切り替えた。盆明けの18日には避難所を閉じ、益城町一帯の避難所が1か所に集約された。
自主運営に移行したことにより、ゴミ処理やトイレの掃除など全て自分たちでやることになった。

【運営は女性を中心に】
4カ月の避難所生活を振り返ると、男性に比べ女性は切り替えが早かった。避難所は日常生活の場。女性たちが主導し、その後方を男性がサポートした方が上手くいくことを実感した。

【役割分担には欠点も】
災害が起きた時にみんなが避難所に集まれるとは限らない。難所が生活の場との意識で全体を頭に入れておきながら、集まって来た人が臨機応変に動く――最初から役割分担はしなかった。
家は潰れたとはいえ、家の片付けや仕事に行く人もいる。そうなると役割を果たせない人への不満も出る。分担を決めるより得意分野を生かし、出来る人ができることをすることが望ましいと考えたからだ。避難所に残っているのは高齢者が多いことも考慮する必要がある。

【「きまま」からの提案】
   避難所は安らぎの場所であり生活の場。避難所でできた繋がりが次の仮設住宅や公営住宅に活かされることが孤立化予防につながる。多くの人が集まる避難所よりも80名ぐらいで顔が見えるくらいが望ましい。
   避難所は耐震構造でいくつかの部屋があり厨房施設とシャワー、トイレ、発電機があるのが望ましい。
   仮設住宅はコミュニティが形成できるように、顔見知りの人が集まる形が望ましいその事を災害公営住宅へと繋げるように。
   避難所運営には学校管理者の校長先生や先生たちが関わることが多い。
 先生たちが本来の仕事に戻れるような運営が望ましい。
文 川添繁美